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(2015.5.22 管理人 記)

2012年08月04日

兵庫城発掘調査現地説明会

 神戸市兵庫区の中央市場跡地で行われている発掘調査で、兵庫城石垣が確認されました。

 兵庫城は1580年に信長配下の池田恒興によって築かれました。荒木村重の花隈城(現:中央区花隈公園)を廃し、新規につくられたものです。絵図からうかがえる城の規模はさほど大きなものでなく、約140m四方。主郭の東側に馬出を一つ備えただけのシンプルな縄張りです。江戸時代は尼崎藩領となり、兵庫城はそのまま陣屋として使われました。
 明治維新後、初代の兵庫県庁となりますが、1874年に新川運河が開削された際、城地は運河で真っ二つにされ、その後の市街化で消滅しました。

 城地の東半分は中央市場の敷地になっていましたが、老朽化のため市場は東隣に集約移転され、跡地が再開発されるに当たっての発掘調査で、兵庫城の石垣が確認された次第。

 左写真は兵庫城の南東隅。右側が城外で、左奥が馬出しの石垣です。平らにならされているのが堀の底で、幅は14.6mあります。石垣は堀底から1mほどの高さが残っていて、その上は後世に削平されて消失しています。城が機能していた時代の石垣の全高は不明。
 右写真は南側の堀。手前が場内で奥が城外。こちらの堀幅は18m。他の調査区では堀幅10mほどの場所もあり、絵図では均等に描かれている堀幅が場所によって異なることが分かりました。

 石垣は2〜3段分しか残っていないのですが、自然石を積み上げた「野面積み」と呼ばれる手法が使われています。
 石垣には五輪塔や宝篋印塔を転用した石が多く使われています。この付近は六甲山から石を切り出せるのですが、さらに手頃に使える山麓の加工石を「リサイクル」したのでしょう。戦国末期の城郭ではよく行われていることです。
# 新聞に「神仏を恐れぬ信長の所業」的な記事を書かれていて、説明の学芸員の方が「誰があんなこと言ったんだ」と困ってました。

 堀から見つかった出土品。水分が多い場所なので、下駄などの木製品も残っていました。出土品の殆どは18世紀の半ばのものと推定されています。徐々に堀が埋まったのなら、各時代のものが下から順番に出てくるはずですが、底から上まで同じ時代のものが出てくることから、ある時期に一気に埋められたと推定されます。
 兵庫津は1769年に尼崎藩領から天領となりますが、その後、兵庫城の堀が埋められ、町家になって行きました。
 堀底のヘドロも18世紀半ばのものしかなく、尼崎藩領時代は定期的に堀底の浚渫が行われていたことが推定されます。幕府領になってからのほうが手入れが悪いとは……

 城の堀が埋められたあと、町家の区画溝として水路がつくられました。堀の断面に、当時の水路の石垣も残っています。幅は1mほどで、もはや防御施設としての機能は残っていません。この変遷は18世紀の半ばから後半にかけての短期間のうちに起こったと推定されています。

 中央市場の跡地は、イオンモールが進出することになっています。それにあたってのボーリング調査が行われた結果、鉛やヒ素で土壌汚染されている場所があることが分かりました。汚染土を入れ替えないとその後の開発ができず、今回の調査はそれにともなうもの。
 貴重な兵庫城の遺構ですが、仮に保存するにしても、汚染土を取り除かないと遺構の覆屋すら建てられず、汚染土を取り除くということはすなわち、遺構を撤去することに他ならず、現時点ではどうにもならないそうです。

 現在各地に残る城の石垣の多くは、豊臣時代から江戸時代初期に築かれたもので、信長時代の石垣がそのまま残っている例は貴重なものです。また兵庫県にとっても、その名の発祥の地と言える遺構です。
 なんとか保存できればよいと思うのですけれども。


posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | お城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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