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(2015.5.22 管理人 記)

2014年08月02日

備中高松城(岡山市北区)

 羽柴秀吉の水攻めで名高い備中高松城を訪問。
 政令指定都市となった岡山市の北区にありますが、かつては備中と備前の国境地帯でした。あいにくの雨天でしたが、この城に限っては往時を偲べる雨の日に足を運べたことを幸運とすべきでしょう。

 備中高松城は小さな盆地の水田の真中にあります。
 水田はかつては沼地で、敵の接近を許さない難攻の城でした。微高地にあるとはいえ、現状で本丸の比高が水田から2m弱、それ以外の郭は1m弱。かつて周囲が沼地だった時はもう少し標高差があったと思いますが、それでも真っ平らな城であることに変わりありません。

 本丸跡と二の丸・三の丸の西側は高松城址公園として整備されています。水田を掘り返した堀跡の池に蓮が植えられたきれいな公園ですが、城址としてより公園としての整備を優先した印象。
 本丸は城跡らしい雰囲気ですが、明瞭な土塁などはなく土地の高さでそれと知れる程度。それ以外の郭は遺構の雰囲気もほとんど感じません。
 空中写真では堀跡のような水田の区画が分かるのですが、現地では標高差がほとんど無いため、これもそれらしい雰囲気はなし。ここまで真っ平らな城も珍しいです。

 水攻めは黒田官兵衛の献策と言われていますが、なるほどこの地形なら堤防さえ築けば高松城は水に沈みます。おそらく本丸を含めた城内全域が床上床下浸水状態だったでしょう。
 城兵の居住スペースも事欠いたでしょうから、堤防完成から半月ほどで開城に追い込まれたのもやむなしだったと思います。

 本丸にある清水宗治の首塚(左写真)。
 本丸北側の住宅地の中にある宗治の胴塚(右写真)。宗治は家臣の命と引き換えに切腹しますが、子孫は小早川氏、のち毛利氏に仕えて幕末まで続きます。

 三の丸跡にある宗治自刃の碑(左写真)。宗治は船を漕ぎだして人工湖上で切腹したのですが、城内ではこの碑のあたりが羽柴秀吉の本陣に一番近い位置になります。
 城と羽柴勢の陣地は意外に近いことにも驚きました。右写真は三の丸の端から秀吉の本陣方面を撮影したものですが、攻囲勢が屯していたはずの山の中腹に建つ家は窓が開いているかどうかも分かります。身振り手振りの情報伝達ができる距離です。

 公園内にある資料館。私が訪問した時は案内役のボランティアが説明にあたってくださいました。右写真は資料館内の模型。地元の高校生が制作した力作。

 資料館の中に展示されていたアルバム。毛利家の現当主、毛利元敬氏が清水宗治の墓参に訪れた様子を撮影したものです。
 毛利家とすれば宗治が本能寺の変まで持ちこたえたことで織田信長の攻勢を凌ぎ切ったわけで、それにしても400年も前の話なのに律儀なことです。ちなみに71代とはどこまで遡るのかと思ったら、天穂日命(アメノホヒノミコト)から数えているそうです。まさか神代の昔からのカウントとは。
# 江戸幕府と足利幕府の将軍がそれぞれ15代で、鎌倉の北条執権が16代ですから、全部足しても50にすら届かない。
# 毛利氏の実質的な祖は鎌倉御家人の大江広元で、毛利性を名乗った子の季光から数えると31代。

 三の丸の外側の水田のあぜ道。城を攻めようにも、これだけ足元が悪ければうまくいくはずもありません。もちろんあぜ道は圃場が整備された現代のものですが、当時はもっと条件が悪かったでしょう。

 資料館の脇に掲げられていた「水攻音頭」。いや、その、踊りにしちゃう発想に脱帽です。


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posted by ふくだ at 23:45| Comment(0) | お城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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