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(2015.5.22 管理人 記)

2014年11月08日

金戒光明寺

 京都・黒谷の金戒光明寺。京都市街の東に連なる山並みの裾野にあり、京都御苑から2.5kmほどの距離にあります。
 幕末に京都守護職として上洛した会津松平家が本陣を置いた寺です。金戒光明寺が選ばれたのは石垣で固められた小山が城郭のようで要害の地だったこと、というより金戒光明寺が陣所として使えるように江戸初期に改築されたという話もあります。上洛した会津藩士は千名とされていますが、もちろん野宿するわけにもいかず、多くの宿坊を抱えた寺院は人員収容の面でも好適地でした。

 寺の主要な建造物は昭和9(1934)年に火災で焼け、現在の御影堂(本堂)や大方丈は昭和19(1944)年の再建。図面があったため間取りは以前と同じにしてあるそうです。大方丈に会津藩主が使っていた部屋も復元されていますが、建物は代替わりしたにせよ、場所はそのままのはずで、ここで幕末史が動いたのかと思うと感慨深いものがありました。
# 新選組の近藤勇もここで松平容保にお目通りしたのです。また大方丈の展示には新島八重の写った会津関係者一同の記念写真もありました。大河ドラマ強し。

 秋の文化財拝観期間ということで、庭園を見てきました。まだ紅葉には早い時期でしたが、なるほど見事な庭でした。「石橋で写真を取られる方が多いのですが、うっかり落ちないように注意してください」と案内の方。しかし救命浮き輪まで備えてあるとは、過去にどれだけの人が水難に遭ったのか……
 神戸とのゆかりでいえば、熊谷直実が出家後に庵を結んだのもこの地。熊谷直実は一ノ谷の戦いの「敦盛最期」で平敦盛を討った武将です。直実が鎧をかけた松(二代目)だとか。


 金戒光明寺の敷地の一番奥に、会津藩士を埋葬した墓地があります。文久2(1862)年〜慶応3(1967)年に亡くなったのが237人、鳥羽伏見の戦死者115人。
 幕末京都の犠牲者というと勤王の志士を思い浮かべますが、会津の犠牲者の多さにも愕然とします。1,000人派遣して300人以上が亡くなるというのは(途中で人員の入れ替わりがあるにせよ)想像がつきにくいです。

 幕末史の一つの終止符が、ここにあります。


posted by ふくだ at 23:47| Comment(0) | 地図と地理と遠出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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