
これまで2012年の調査で兵庫城の石垣が確認されていましたが、その後の調査で内堀と外堀の二重の堀が確認され、2015年1月31日に現地説明会が行われました。
兵庫城は1580(天正8)年に織田信長の家臣、池田恒興(現在の姫路城を築いた池田輝政の父)によって築かれます。室町時代を通じて日明貿易の重要港だった兵庫津を抑える拠点です。約140m四方の平城で、さほど大きな城郭ではありません。
池田恒興の後は豊臣秀次、片桐且元が城主となり、江戸時代前期は尼崎藩の兵庫陣屋、後期は幕府の直轄領となって番所が置かれます。明治に入って最初の県庁が置かれたのもこの地です。
のち城域の北東側半分が新川運河の敷地となり、残る部分も中央市場となって、消滅します。兵庫城は今回の一連の発掘調査で久方ぶりにその姿を現したのでした。
冒頭の写真は城の南側からの展望。トレンチを掘っての調査でなく、ほぼ全面に渡っての発掘調査。石垣のラインを追うと縄張りがたどれる状態になっています。



右写真は外堀の城下側の石垣。石垣が二列に検出されていて、青テープが張られているのが築城当初からの石垣、左側に張り出している部分が後に堀を埋めて幅を狭くした時の石垣とのこと。


左写真は元お地蔵さん。右写真は元五輪塔。
姫路城の本丸石垣にも石臼を転用したものがあり、わざわざ金網で囲って保護していますが、兵庫城の石垣はこれ以外にも十や二十の単位で転用石を見かけます。

ここから先は遺構の図とともに。垂直空中写真と図は神戸市教育委員会のサイトから引用。赤と青の文字は私が追記しています。なお垂直空中写真はより鮮明な神戸新聞に掲載されていたものを利用(提供元は神戸市教育委員会)。教育委員会のサイトの写真は印刷物をスキャンしたのでコントラストが低いようです。
兵庫城は全体がおよそ140m四方のほぼ方形。内部の西側が本丸、東側が南北に細長い二の丸に区画されています。城の北西側の半分は新川運河の敷地となって完全に消滅しました。
残る部分が今回、全面的に発掘されています。垂直空中写真の赤の線で囲まれたのが検出された堀で、赤の実線は実際に石垣が確認された場所、赤の点線は石垣の痕跡が確認された場所です。
調査が行われている区域の北東側は格子状に掘られていますが、これは中央市場の建物の基礎の跡。このため兵庫城の遺構の残存状況はあまりよくありません。南側は比較的良好な状態で遺構が残されています。


一般の城郭でいう大手門に当たります。


兵庫城の石垣の特徴として、加工された石が少ないこと。石を割るための矢穴がほとんど見られず、自然石に近い状態のまま積まれています。
石垣の裏には排水のために、裏込め石と呼ばれるこぶし大の石を詰めるのですが、この裏込め石の層が薄いことも特徴(右写真)。また石垣を積む際は、不等沈下を防ぐために胴木と呼ばれる木材を石の下に敷きこむことが多いのですが、築城当初の兵庫城ではこれもありません。不要と判断したのか、よほど工事を急いだのか。


手前の石垣の裏込め石の後ろ、青いテープが張ってある場所にもう一列、大きな石が頭をのぞかせています。堀を狭めて石垣を増築したのか、犬走りと呼ばれるテラスのような構造があったのか、石垣の上面が削られているので判断はできないが、そうした可能性があるとのこと。


右写真は二の丸から内堀と本丸を望んだもの。内堀の看板が立っているところは高くなっていますが、これは江戸時代に堀を埋めた際の石垣が残っているので調査のために掘り残しているものです。


Aの北側の土橋は市場の建物の基礎で断ち切られ、石垣の断面が見えています。幅約4.2m。築城当初の石垣は傾斜をつけて築かれているのですが、北側の土橋は垂直に近い石垣で、また石垣の底の土が他の堀底に堆積している土と似ていることから、後から築かれたものと推定されています。土橋を作る前に木橋がかかっていたかもしれないとのこと(遺構はないので推測)。
Bの南側の土橋は幅約5.8m。こちらは築城当初からのもの。のち江戸時代になると南側の土橋は堀にされ、北側の土橋が唯一の出入り口となりました。元禄時代の「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」に描かれた兵庫城はこの時点のもの。
# 「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」は神戸市立博物館委託。リンク先の図は西が上になっています。
本丸への出入口が二ヶ所あるのは大和郡山城と共通した構造で、身分によって入り口を使い分けていた可能性を指摘されています。


兵庫津は江戸時代半ば、1769(明和6)年に尼崎藩領から幕府直轄領になり、この後、兵庫陣屋(兵庫城)の堀は埋め立てられ、町屋になっていきます。
堀は「悪水抜溝」として残りますが、築城当初の半分ほどの幅になります。悪水は不要な水の意味で、悪水抜溝は現代に例えると排水路といったところ。
築城当初の石垣と違って、こちらは石垣の下に不等沈下を防ぐ胴木が敷かれ、また木杭も打ち込まれています。石材も全体的に小ぶり。
この悪水抜き溝も時代とともに埋め立てが進み、最後の頃には幅が1mから40cmになっていたそうです。もはや側溝と変わらない状態。


一般的な城下町では城の周りに武家地があり、その外側に町人の住む区画があります。けれども兵庫城では築城年代まで掘り下げても武家地の痕跡がありません。もともと兵庫津の町があった場所に後から城を建てたという事情が絡んでいるのかもしれません。
町屋は間口が狭く奥行きが長いタイプ。右写真で説明している方の影の先端が四角く掘り下げられているのが囲炉裏で土間と板の間の境にあったそうです(ちょっと分かりにくい)。また説明している方の足元手前の土が黒っぽくなっていますが、これはかまどの跡。隣家との境は土塀で仕切られていました。


右側の写真でわかりますが、土塀とともに出土していて、土塀の芯材として埋め込まれていたものです。福の字は「お寺さんの瓦を使ったのではないか」とのこと。この近くで福の付く寺というと福厳寺か能福寺か。


調査が終われば埋めてしまう運命ですが、見事な断面なので布を当てて接着剤で表面を剥ぎとって他の場所で展示する準備をしているそうです。右写真がちょうどその作業をしているところで、地面に剥ぎとった地層が広げられています。


右写真は石垣の中から出てきた五輪塔や塔の周りの柵に使われていた石、台座のような石など。神戸は花崗岩の塊の六甲山系があるので石材には困らないのですが、町に置いてある石は手間いらずで使えるので魅力的だったのでしょう。


説明会の当日は風が強く、また気温の低い日で、私は一時間半ほどの見学で体が心から冷えきってしまいました。担当の学芸員のみなさんや受付や警備の方々は11時から15時半の公開期間中、ずっと見学者の対応にあたって下さり、ありがたい限りです。
長きに渡った調査も2015年3月で終了し、ここは埋め戻され、ショッピングセンターになります。これだけの遺構が勿体無い気もしますが、そもそもその前提で始まった発掘調査です。
石垣の一部だけでも見学できる状態で保存して頂けると嬉しいのですけれども。
今、福田さんの文章を読んで 昨日聞いた説明がすべて完璧に盛り込まれていることに驚き、最後にあるこのコメントにどうしても書かなくてはいけない気になったのです。
天文関係は勿論ですが、常々多方面にも深い方だと思っていましたが、昨日聞いた説明をここまで再現できるのか・・・マイッタ しか出ません。
現地で頂いた資料に大事なところは全て書いてありましたので、それを見ながら聞いたお話を思い起こしました。寸法の数字はみな資料に記載されているものです。
堀が埋め立てられる経緯は前回(2012年)の兵庫城の説明会で詳しく説明されていたので、それが予備知識として頭にあったのが大きかったと思います。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/events/hyougotu20120804.pdf
神戸市の文化財課のサイトで過去の現地説明会の資料も見ることが出来ます。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/gensetu..html
実はお城は高校生の頃から好きで、学生の頃は藪をかき分け中世城郭を訪ね歩いていました。
天文学会の期間中なら間に合いそうですかねぇ…?
発掘現場の道路を挟んだ東側が中央市場の建物になっていて、2階の飲食店街のテラスはだれでも登ることが出来ます。遠目になりますが、現場の全体像は俯瞰できるかもです。
↓半年前の中央市場2階からの展望
・兵庫区の中央卸売市場本場西側跡地にできる『イオンモール』の進み具合を見てみる。2014年6月(KOBE JOURNAL)
http://kobe-journal.com/archives/1004788687.html
あと神戸市のサイトに当日配布資料が掲載されていました。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/hyougotu62-3.html.pdf
旧中央市場の建物の位置は内堀、本丸に駐車場と倉庫。外堀は住居棟、(3)は生花の卸売り場があったと記憶しています。
旧中央市場は、内部の通路がすごく埃っぽかったのが印象に残っています。
いらっしゃいませ。
中央市場にご縁のあるお方からコメントいただけるとはびっくりです。
以前の職場の時に何度か市場に買い物に出たことはあったのですが、奥までは入ったことがないままでした。
旧中央市場も神戸のくらしを支え続けた存在なので、こちらも跡地を訪れた人の目に触れる形で記録に残るといいですね。