塩屋天体観測所の雑記帳はhttp://stelo.sblo.jp/に移転しました。
今後はこちらの旧サイトを更新しません。引き続き移転先でよろしくお願い致します。
(2015.5.22 管理人 記)

2015年03月28日

兵庫城発掘調査現地説明会(2015年3月28日)

 中央市場跡地の開発事業に伴って行われている兵庫城の発掘調査(遺跡名は兵庫津遺跡)。
 敷地のほぼ全面に渡って調査が進み、2015年1月にはこれまでの内堀と外堀が見つかったところまでの現地説明会が行われました。
 調査期間が2015年3月末ということで、これで埋め戻して終わりかな、と思っていたのですが、まだ出てきたのです。なんと天守台が。
・「織田信長の西国進出拠点“発見” 神戸の兵庫津遺跡」(2015.3.27神戸新聞)

 27日に記者発表、28日に現地説明会とはなんとも急な話です。とはいえ、これは見に行くしかありません。
 地下鉄海岸線の中央市場駅に現地説明会の案内掲示が出ています。
 発掘現場に着くと、前回公開されていた外堀のうち、南側の部分はすでに埋め戻されていました。今回、天守台とされる石垣が見つかったのは本丸の北東隅。

 ここから先は遺構の図とともに。垂直空中写真と図は神戸市教育委員会のサイトから引用。緑と赤・青の文字は私が追記しています。なお垂直空中写真はより鮮明な神戸新聞に掲載されていたものを利用(提供元は神戸市教育委員会)。
 今回新たに見つかった石垣は緑の線の部分。これまでに確認されていた内堀より、さらに堀幅が広かったことになります。

 これまでに発掘された兵庫城の石垣は、石の重量を支える胴木がなく、裏込め石も少ないのが特徴でした(左写真=1月31日の現地説明会・二大手道の土橋付近)。それほど丁寧な工事でなかったのかもしれませんが、この時代は築城用の石垣が発展途上の時期で、胴木も旧二条城や安土城で用いられたばかりのもの。

 ところが今回新たに見つかった石垣は、胴木があり、裏込め石もたっぷり仕込まれています(右写真)。ここだけ念入りに石垣を組んでいたということは、石垣の上に重量のある建物が建っていた可能性が高い。新しい技術だった胴木が使われていたことは、兵庫城が地域の拠点としてそれなりに重視されていたことを示唆する遺構です。

 胴木は前列の石垣と後列の石垣に各一列ずつ。後の時代になるともう少し複雑な構造になるのですが、兵庫城のそれはシンプルです。中には建築部材を転用したものも。
 出土した胴木の乾燥を防ぐために定期的に散水を行っていらっしゃいました。

 石垣が二重に組まれているのは、(1)本丸を拡張するため最初の石垣を覆うように外側に石垣を組み足した、(2)外側の石垣は内側の石垣を補強する犬走り、と2通りの推定がなされています。(1)の場合は外側の石垣いっぱいに、(2)の場合は内側の石垣の上に建物が載っていたことになります。

 建物の遺構面は後世の工事で削られているので、現状から平面規模は分かりません。ただ堀の埋め立てに使われた土砂からは瓦が見つかっているので、それなりの建物はあったのだろうと推測できます。
# とはいえ天守台とは思い切った推定をしたものです。

 石垣は相変わらず転用石だらけで、今回の調査範囲でも仏像の形が残る石や五輪塔の笠形の石が見られます。

 個人的に衝撃を受けたのは、本丸から検出された石組みの井戸。内面がきれいに四角い石で組まれているのですが、これがことごとく一石五輪塔の底の石。五輪塔は墓碑や供養塔として作られたのですが、この井戸のためにどれだけ墓地を壊したのやら。

 面白かったのは内堀の中に残る杭の列。逆茂木かと思って質問したら、兵庫城築城前にあった水路(溝)の跡とのこと。元からあった窪地を利用して堀を作ったのかもしれない、とのお話でしたが、築城以前にさかのぼる遺構もあったとはこれも驚きです。

 冒頭にも書いたとおり、兵庫城跡の発掘調査は2015年3月末で終了し、この場所にはイオンモールが建設されます。
 これだけの遺構が目に触れない形になっていくのは残念ですが、そもそも開発に伴う調査で今に残る兵庫城の遺構が明らかになったという経緯があります。以前は新川運河の開削と後の市街化で完全に消滅したと考えられていました。
 今回見つかった石垣は埋め戻されてそのまま地下で保存されるとのこと。上に建物が立つ場所ではないので、今はともかく将来的に遺跡公園のような形で整備して公開されると嬉しいです。


posted by ふくだ at 23:46| Comment(0) | お城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント