塩屋天体観測所の雑記帳はhttp://stelo.sblo.jp/に移転しました。
今後はこちらの旧サイトを更新しません。引き続き移転先でよろしくお願い致します。
(2015.5.22 管理人 記)

2013年06月02日

出石城(兵庫県豊岡市)

 出石城は、1574(天正2)年、但馬国守護の山名祐豊によって築かれました。
 当時は有子山城といい、現在の出石城を麓の館とし、背後の有子山に主郭部を置いた山城でした。江戸時代に入って山城部が放棄され、山麓の館の部分だけを改築し、出石城と改名して使用しました。現在は四段に築かれた高石垣と、復原された隅櫓が2つ残っています。城と言うよりは政庁という雰囲気。
 有子山城の遺構は現在も良好に残っていて、城下町からも山上の石垣を遠望できます(右写真)。今回は登りませんでしたが、建物こそ撤去されたものの、山上の石垣が壊された形跡はなく、おそらく非常時の「詰城」として残しておいたのではないでしょうか。

 江戸初期に活躍した禅僧の沢庵は、この出石の出身。但馬守護の山名家は織田勢の羽柴秀吉の侵攻で滅亡し、沢庵の父もこの時浪人しました。
 江戸時代初期はコロコロと藩主が入れ替わりますが、1706年に小諸から仙石家が入り、そのまま幕末を迎えます。仙石家の藩祖は秀吉の家臣の仙石権兵衛秀久で、ヤングマガジンに連載中の漫画「センゴク」の主人公です。出石そばのお店に行くと、丸に無の紋を見かけることがありますが、これが仙石家の紋。出石のそばは仙石家が小諸から転封されるときに、そばも一緒に持ってきたものだと言われています。

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2013年05月12日

船上城(兵庫県明石市)

 明石城が築かれたのは天下も定まった大阪夏の陣の後のこと。
 それ以前の明石のお城は、明石警察署の西側にあった船上城(ふなげじょう)でした。

 キリシタン大名の高山右近が一時、明石の領主だったことがありますが、その時の居城は船上城です。おそらく船上の一帯が城の内郭で、林あたりも城下町だったかもしれません。
 6万石の城下ですからそれなりに賑わったはずですが、明石城築城の際に城の資材はほとんど持ち去られ、遺構らしい遺構はほとんど残っていません。わずかに本丸跡と伝わる高台がありますが、往時は格段に広かったはず。

 戦後の米軍撮影の空中写真を見たことがあるのですが、それでも遺構は判然としません。
 明治前半の仮製地形図でも遺構らしい痕跡はなく、かなり早い時期(江戸時代のうち)に失われてしまったのでしょう。旧版の地籍図があればかつての土地利用から堀や土塁の跡を読み取ることが出来るかもしれないと、何年か前に明石市立図書館へ行ったのですが、資料にないようで、素人調査ではこのあたりで手詰まりです。
# 法務局で地籍図を作りなおした時に、運が良ければ旧版の地籍図が郷土資料的に地元の図書館に収蔵されることがあります。

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2013年01月12日

石井営所(茨城県坂東市)(1月1日)

 石井営所は平将門が後期に本拠をおいた場所です。「将門記」には「石井営所」が2回と「石井之宿」が1回出てきます。この石井が後の岩井とされています。明治までは岩井村、戦後に岩井町から岩井市となり、昭和の大合併で坂東市になりました。
 石井営所は茨城県坂東市岩井の島広山に比定され、石碑が立てられています。
 岩井での「ヤマ」は盛り上がった土地ではなく、森や林を指す言葉です。おそらく林が広がる台地だったのでしょう。

 石井営所に遺構らしい遺構は何一つありません。東側は菅生沼から続く低湿地帯で、防衛にはそれなりに気を使っていた様子を伺えます。平安時代中期の武士館の姿は分かりませんが、空堀・土塁を巡らす最低限の防御は備えていたでしょう(←想像)。将門記では新皇の館は最後の合戦で火をかけられて焼亡したとあるので、掘れば焼土層が出てくるかもしれません。

 近所にある「石井の井戸」と「九重の桜」。石碑の日付が1978(昭和53)年なので、大河ドラマ『風と雲と虹と』(1976年放映)の影響を受けて整備したのでしょう。放送後2年も経ってから着手したあたり、我が故郷ものんびりしたものです。

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2012年12月30日

祇園城(栃木県小山市)

 栃木県小山市の祇園城を見てきました。高校時代の友人と栃木市で会う約束をしていたのですが、予定より早く着きそうだったので、時間調整の道草です。

 戦国時代の小山は、後北条氏と上杉謙信、あるいは後北条氏と佐竹氏の境目にあたりました。領主の小山氏もあっちに属しこっちに属し、最後は後北条氏の配下にある時に秀吉の小田原征伐を受けて滅亡しました。

 小山には中世城館がいくつもありますが、戦国後期に中心的な役割を果たしていたのが祇園城です。
 西に思川を臨む大地の端にあり、土塁と空堀で曲輪を仕切るのは関東平野の城郭ではよく見られるもの。城趾一帯は公園化され、遺構もよく残っています。特に空堀は深く、雄大。ただ曲輪の仕切りは直線的で、技巧を凝らした様子はさほど感じません。駐屯地としての役割が強かったのかもしれません。

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2012年08月05日

姫路城「天空の白鷺」(2012夏)

 2009年から大修理中の姫路城天守。
 工事中、素屋根の一角に「天空の白鷺」という見学施設がつくられています。以下、一年前の2011年8月に見学した際の記録。
姫路城「天空の白鷺」(前編)(2011年8月7日)
姫路城「天空の白鷺」(中編)(2011年8月7日)
姫路城「天空の白鷺」(後編)(2011年8月7日)

 友人が「ずいぶん工事が進んだよ」と教えてくれたので、再度、見に行ってきました。

 こちら見学施設の最上階、8階から見る天守五層の屋根。瓦を並べ終わり、漆喰を塗る工事が行われています。ほぼ仕上げといっていい段階。
 右写真が屋根の拡大図。よく見ると、瓦に塗られた漆喰が、左側が薄く、右側ほど厚くなっているのが分かります。左側のほうが工期が遅れて、図らずも作業の進捗が分かる状態になっています。

 屋根の天辺には、新しく作りなおされた鯱の瓦が載せられています。昭和の修理の際にも新調されたのですが、50年ぶりに代替わり。鯱の高さは約2m。制作費用は800万円とのこと(1基なのか2基まとめての値段か聞き忘れました)。「高級車一台分くらいの値段だね」とは解説のボランティアのおじさん。でもうちに鯱おいてもしょうがないので、高級車の方がいい……という個人的思惑はともかく、わざわざ新調するのは技術の継承的な意味合いもあるのだろうとも思ったり。

 こちら展示施設の7階から見る、天守五層の壁。2011年夏には土が全部はがされた状態でしたが、現在は下地を塗り終えた状態。この上に何層も重ね塗りして、最後に漆喰を塗って仕上げます。こちらの進捗状況は道半ばという感じ。
 エレベーターから、下層部は白い漆喰の壁が見えたので、下から順番に仕上げているのかと尋ねたら、全体をチェックして痛みの状況に応じて修理をしているとのこと。五層の壁は全部はがしてやり直しているので、相当、傷んでいたのでしょう。天守の角と窓枠の間は壁になっていますが、築城当時はここも窓を設けるつもりだったとのこと。敷居と鴨居があるのですが、使用痕がなく、はめ殺しで板を埋めて壁になっているため、工事の途中で設計を変更して壁にしたようです。原因は不明ですが、耐震化のためではないかと推測されているようです。

 フロアには壁土か漆喰かを練るためのトロ舟が置かれています。窓際というか壁際にズタ袋が並んでいて気になったので聞いてみたら、剥がした壁土をそのまま保存して、再利用するとのこと。使えるものはなるべく使うということで、さすが文化財修理です。

 姫路城天守の修理は6年計画の4年目。2014年に素屋根が取り払われ、修理なった大天守の姿を見ることができます。
 その前にまた、あと一度は工事の様子を見ておこうと思います。
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2012年08月04日

兵庫城発掘調査現地説明会

 神戸市兵庫区の中央市場跡地で行われている発掘調査で、兵庫城石垣が確認されました。

 兵庫城は1580年に信長配下の池田恒興によって築かれました。荒木村重の花隈城(現:中央区花隈公園)を廃し、新規につくられたものです。絵図からうかがえる城の規模はさほど大きなものでなく、約140m四方。主郭の東側に馬出を一つ備えただけのシンプルな縄張りです。江戸時代は尼崎藩領となり、兵庫城はそのまま陣屋として使われました。
 明治維新後、初代の兵庫県庁となりますが、1874年に新川運河が開削された際、城地は運河で真っ二つにされ、その後の市街化で消滅しました。

 城地の東半分は中央市場の敷地になっていましたが、老朽化のため市場は東隣に集約移転され、跡地が再開発されるに当たっての発掘調査で、兵庫城の石垣が確認された次第。

 左写真は兵庫城の南東隅。右側が城外で、左奥が馬出しの石垣です。平らにならされているのが堀の底で、幅は14.6mあります。石垣は堀底から1mほどの高さが残っていて、その上は後世に削平されて消失しています。城が機能していた時代の石垣の全高は不明。
 右写真は南側の堀。手前が場内で奥が城外。こちらの堀幅は18m。他の調査区では堀幅10mほどの場所もあり、絵図では均等に描かれている堀幅が場所によって異なることが分かりました。

 石垣は2〜3段分しか残っていないのですが、自然石を積み上げた「野面積み」と呼ばれる手法が使われています。
 石垣には五輪塔や宝篋印塔を転用した石が多く使われています。この付近は六甲山から石を切り出せるのですが、さらに手頃に使える山麓の加工石を「リサイクル」したのでしょう。戦国末期の城郭ではよく行われていることです。
# 新聞に「神仏を恐れぬ信長の所業」的な記事を書かれていて、説明の学芸員の方が「誰があんなこと言ったんだ」と困ってました。

 堀から見つかった出土品。水分が多い場所なので、下駄などの木製品も残っていました。出土品の殆どは18世紀の半ばのものと推定されています。徐々に堀が埋まったのなら、各時代のものが下から順番に出てくるはずですが、底から上まで同じ時代のものが出てくることから、ある時期に一気に埋められたと推定されます。
 兵庫津は1769年に尼崎藩領から天領となりますが、その後、兵庫城の堀が埋められ、町家になって行きました。
 堀底のヘドロも18世紀半ばのものしかなく、尼崎藩領時代は定期的に堀底の浚渫が行われていたことが推定されます。幕府領になってからのほうが手入れが悪いとは……

 城の堀が埋められたあと、町家の区画溝として水路がつくられました。堀の断面に、当時の水路の石垣も残っています。幅は1mほどで、もはや防御施設としての機能は残っていません。この変遷は18世紀の半ばから後半にかけての短期間のうちに起こったと推定されています。

 中央市場の跡地は、イオンモールが進出することになっています。それにあたってのボーリング調査が行われた結果、鉛やヒ素で土壌汚染されている場所があることが分かりました。汚染土を入れ替えないとその後の開発ができず、今回の調査はそれにともなうもの。
 貴重な兵庫城の遺構ですが、仮に保存するにしても、汚染土を取り除かないと遺構の覆屋すら建てられず、汚染土を取り除くということはすなわち、遺構を撤去することに他ならず、現時点ではどうにもならないそうです。

 現在各地に残る城の石垣の多くは、豊臣時代から江戸時代初期に築かれたもので、信長時代の石垣がそのまま残っている例は貴重なものです。また兵庫県にとっても、その名の発祥の地と言える遺構です。
 なんとか保存できればよいと思うのですけれども。
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2012年07月28日

彦根城

 鳥人間コンテストを観た帰り、彦根城を通って来ました。体力がなかったので、ほんと、山麓の三の丸の辺りを通り抜けただけ。

 この一帯は、京都から北陸へ向かう北国街道、また東国へ向かう中山道が通過する要所。
 かつては石田三成が佐和山城を置き、遡れば少し北の羽柴秀吉の長浜城も同じ地域といえるでしょう。

 徳川譜代筆頭の井伊家の居城として江戸時代初期に天下普請で築かれ、京、そして西国の押さえとされました。

 城内を歩いていて気付いたのは、井伊直弼がらみの史跡が多いこと。生誕の地に開国記念館。
 幕末ものの歴史小説では安政の大獄を引き起こした「井伊の赤鬼」として、大抵、悪役扱いですが、開国を決断した人物なので神戸にも浅からぬ縁があることになります。元茨城県民としては、直弼を討ったのは水戸脱藩浪士なだけに、なんとも複雑な印象で眺めざるを得ません。

 江戸時代の天守建築が残っている城郭は12ありますが、うち松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4つは国宝に指定されています。後日ゆっくり、訪ねてみたいと思います。
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2012年05月24日

狭山陣屋(大阪狭山市)

 狭山池の東岸に、河内狭山藩の狭山陣屋がありました。上屋敷・下屋敷の2つがあり、両方とも現地に遺構は残っていません。
 上屋敷は道沿いの小公園に石碑と案内板が立っています(今回は未訪問)。下屋敷は狭山遊園地となり、閉園後は公園とマンションに。写真のやや右寄りに立つ高層マンションのあたりがおよその陣屋跡です。

 河内狭山藩は1万1千石の小大名。領主は北条氏で、戦国時代に関東の覇者となった小田原北条氏(後北条氏)の後裔です。
 豊臣秀吉の小田原攻めで降服した北条氏は、当主の北条氏直が高野山に配流。後に許されて1万石を与えられますが、早くに病死。叔父の北条氏規が跡を継いだのが河内狭山藩の祖となります。
# 北条氏直は徳川家康の娘婿だったことも、小田原開城時の助命につながりました。

 というのは、帰宅してから調べたことで、まさか戦国関東の雄の北条氏が、大阪の一角で生きながらえていたとは思いませんでした。

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2012年05月05日

多聞山城(奈良県奈良市)

 多聞山城は戦国時代、大和の梟雄・松永弾正久秀が築いた城郭です。
 東大寺の北西、市立若草中学校の敷地がその跡地。石垣の上に長屋のような櫓を連ね、主郭には天守を上げました。長屋の櫓は城の名をとって「多聞櫓」と呼ばれ、城郭学の普通名詞になっています。織田信長の安土城に先立って、近世城郭の嚆矢となったお城です。


 お城への道の途中にあった若草公民館。なんとなく城郭建築風。塀には狭間(矢や鉄砲を射掛ける銃眼)まで開いています。芸が細かい。開館時は多聞山城にまつわる資料を見ることができるそうですが、休館日でした。
 道標を頼りに地図なしで歩いていたのですが、雰囲気で正面奥の緑の山が城跡だと分かりました。あれにのぼるのか、うへぇ。

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2012年03月03日

御着城(兵庫県姫路市)

 黒田官兵衛として知られる黒田孝高の旧主、小寺氏の居城が御着城です。当時は御着城が本城、姫路城が支城の位置づけで、黒田家は小寺氏の配下で姫路城を任されていました。のちに小寺氏は織田氏に背いて没落、黒田官兵衛は羽柴秀吉に見出され、活躍していきます。

 御着城は平城で、城跡は城址公園になっていますが、遺構はあまりありません。
 左写真は城址公園のグラウンドの北側の様子ですが、土塁と空堀の痕跡と思われます。
 城址公園の案内板にはグラウンドの東側に土塁と空堀があると記されていましたが、こちらは明確には判別できません。ただグラウンドの地面は周囲より1.5mほど高いので、ここが曲輪の跡と思われます。
 右写真は城址公園の一角にある石橋。天川の西国街道に架かっていたものを移築保存したもので、橋の下の凹地が御着城の空堀とのこと。

 城跡を示す石碑もありますが、その周辺には遺構がなく、城跡の雰囲気はありません。ただ市役所の出張所を兼ねた公民館が城郭風の意匠になっています。
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