塩屋天体観測所の雑記帳はhttp://stelo.sblo.jp/に移転しました。
今後はこちらの旧サイトを更新しません。引き続き移転先でよろしくお願い致します。
(2015.5.22 管理人 記)

2012年02月11日

米沢城(山形県米沢市)

 米沢城は山形県南部、米沢盆地のほぼ中央にあります。石垣は一切無く、土塁と水掘の構造。ほぼ正方形の本丸の周囲を二の丸がくるりと囲み、三の丸は武家町。現在、本丸の土塁と水堀がほぼそのまま残っていて、上杉謙信を祀る上杉神社が置かれています。
 費用節減のために石垣を築かなかったという説もありますが、米沢移封前の上杉家が会津で築いた神指城も今の米沢城と似たような縄張りなので、上杉家伝統の館の形式を踏襲したのではないかという見解もあります。

 戦国時代は伊達市の本拠で、伊達政宗も幼少期から青年期を米沢城で過ごしました。政宗は会津の芦名家を滅ぼして奥州に覇を唱えると同時に、会津黒川(現在の会津若松)に本拠を移しますが、豊臣秀吉の奥州仕置(1590年)で会津は没収。米沢に戻るものの翌年、岩出山城(宮城県大崎市)に転封されます。

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2012年01月01日

関宿城(千葉県野田市)

 2012年のお城初め。田舎のとなり町、千葉県野田市の関宿城。
 平成の市町村合併で野田市に編入されるまでは、千葉県東葛飾郡関宿町で、明治までは水運の要衝として栄えました。関東平野のほぼ中央にあたり、戦国時代は北関東進出を狙う小田原北条氏と、これを阻止する越後上杉氏が激しい争奪戦を繰り広げました。北条氏康曰く、「一国を取り為され候うにも替わるべからず候」。交通の要衝の地である関宿城は一国に等しい価値があるということで、3次10年に及ぶ攻防戦の末に、北条氏の傘下になっています。
 江戸時代は譜代大名が相次いで入城し、江戸時代後期はほぼ5万石の城下町として推移しました。関宿藩は泉州堺に飛び地があり、江戸末期に鈴木貫太郎がここで生まれています(維新後、関宿に移住)。

 その関宿城ですが、実は現在、目立つ遺構がほとんど残っていません。
 関宿は利根川と江戸川の分流点にあたり、明治以降の河川改修で旧城域の大部分が江戸川の河川敷や堤防の下に埋もれてしまったのです。また堤防の内側に残った部分も、武家地の大部分が耕地となり、その後に圃場整備が行われたため、こちらもほとんどが失われてしまいました。

 現在わずかに、江戸川の堤防に沿って、三角形の微高地が残っているのが、関宿城のほぼ唯一の痕跡で、これが本丸跡ということです。右の写真、右側の高いところが本丸で、左の田んぼがかつての濠跡です。
 上の写真では本丸の高地が画面左になります。右奥に三階櫓が見えていますが、これは1995年に開館した千葉県立関宿城博物館。江戸川の堤防上にあり、三階櫓は旧状を模したものとされていますが、場所は旧本丸から少し北側に建っています。

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2011年08月27日

会津若松城(会津若松市)

 会津若松城、別名鶴ヶ城。会津は古くから東北の要衝で、古くは葦名氏が居城を置いていましたが、奥州制覇を目指す伊達政宗がこれを奪取。豊臣政権下では蒲生氏郷や上杉景勝といった有力大名が封じられ、徳川幕府でも三代家光の異母弟、保科正之が入府。これが会津松平家として幕末まで続きます。

 戊辰戦争では新政府軍が城下へなだれ込みますが、堀際で撃退。以後、一ヶ月に渡る籠城戦が続きます。この間、城外の小山から一方的に砲弾を浴び続け、明治初期の古写真にはボロボロになった天守の姿が残されています。

 明治に入り、城内の建造物はことごとく破却されますが、1965年に天守が再建されます。当時は建築基準法の規制で大きな木造建築物を建てることが出来ず、鉄筋コンクリート造で内部は郷土資料館になっています。それでも城下町のシンボルとして、再び天守が上がる姿を見た市民の喜びはいかばかりだったかと思います。

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2011年08月24日

世田谷城(東京都世田谷区)

 東京のお城といえば江戸城ですが、戦国時代には小さな城郭がたくさんありました。渋谷城もそうですし、今回訪問した世田谷城もその一つ。

 世田谷線の上町駅の近くに世田谷城阯公園があり、公園内をY字型に横切る空堀と、堀に沿って土塁が残っています。堀と土塁には石垣が積まれていますが、これは公園整備の際におそらく崩落防止目的で組まれたもの。公園と地続きのフェンスの向こうの敷地には、本来の土だけの姿の遺構が残っています。

 公園を見ただけでは城全体の縄張りを判別できないのですが、解説板によれば、近所の豪徳寺境内が城主の館と想定される主要区画で、城址公園のあたりは城の南端の一部にすぎないことが分かります。

 城主は吉良氏。吉良氏といえば忠臣蔵で有名な吉良上野介が思い浮かびますが、元々は清和源氏足利氏に連なる名門。本流は三河(愛知県)に領地を持ち、江戸時代に高家となった吉良上野介は本家の系統です。
 世田谷城の吉良氏は三河吉良家から分かれた家系で、室町時代に世田谷に拠点を置きました。後に小田原北条氏の庇護下となり、秀吉の関東攻略で没落しますが、江戸幕府下に高家・蒔田氏として家名を残しました。
 世田谷城は小田原攻めの際に開城し、そのまま廃絶しました。そして主要区画が豪徳寺となって今に至ります。

 歴史的農業環境閲覧システムで迅速測図(三角測量が始まる前に速成で製作された明治時代の地形図)で、世田谷城の故地を見てみると、豪徳寺の一帯が西・南・東の三方を烏山川に囲まれた舌状台地になっているのが分かります。平坦な関東平野で、守りに易い地形を巧みに選んだ築城だったことが伺えます。

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2011年08月07日

姫路城「天空の白鷺」(後編)

 7階へは階段で下ります。ここから見えるのは、五層(最上層)の壁面と、四層の屋根。

 丸裸の姫路城大天守が見えるのは、ここだけ! 漆喰が化粧とすれば、地肌まで剥いじゃったお姿ですけど(例えが穏当じゃない)。でもこの高さから天守を見ることが出来るって、大凧に乗った忍者くらいなものですよ。

 取り外された瓦は全てチェックを受け、痛んでいるものは交換されます。丸瓦に刻まれた紋は、それぞれ築城・修理に当たった城主の家紋を反映しているので、注意してみると面白いです。
 置くに積まれた土のう袋は、剥がした漆喰や壁土だと思うのですが、これは再利用するのでしょうか。フロアにいた人に聞けばよかったなぁ。

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姫路城「天空の白鷺」(中編)

 大天守を覆う素屋根の一部は、工事を見学できるスペースを設け、一般公開しています。名付けて姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」。素屋根は大天守の石垣まで囲っているので、元の天守よりずいぶん南側に張り出した建物になっています。

 もう一度、素屋根の外観。最上部にパネルが白色で二列に窓が並んだ区画があり、ここが見学施設(7階・8階)になっています。1階にエントランスがあり、エレベーターでいきなり8階に連れて行かれる見学ルート。2〜6階の途中階はありません。

 8階に上がると、意外にきれいな空間が広がっています。南側・西側の展望窓と、天守側に工事の見学窓。フロアの中には屋根の補修の工程を示した模型も展示されています。

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姫路城「天空の白鷺」(前編)

 姫路城大天守は2009年から6年間かけての修理が行われています。
 屋根は全ての瓦を外しての葺き直しが行われるほか、外壁も四層・五層は下地から塗りなおし、一〜三層は表面の漆喰の塗り直しが行われます。
 1956〜64年に行われた「昭和の大修理」では、天守の用材一本に至るまで解体補修され、350年に一度の修理とされましたが、今回の「平成の大修理」は外観の修理に絞られ、50年に一度の修理と位置づけられています。
 天守を覆う素屋根の建設の様子は、森本おじさんのサイトに記録が残っています。

 大天守修理中に特別公開されている「リの一渡り櫓」。二の丸の上部にあたる上山里曲輪を囲む多聞櫓の一部です。これまでに一度も公開されたことがない、という触れ込みですが、実戦本位の城のこと、内部は地味なつくりで、川原や甲冑などの展示室兼用になっています。

 怪談「播州皿屋敷」で有名なお菊井戸。井戸の縦穴には金網をかぶせてありますが、覗き込むことは出来ます。中は真っ暗なので底をうかがうことは出来ませんが……一枚、二枚……

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2011年05月04日

武田氏館(山梨県甲府市)

 武田神社の境内となっている武田氏館。武田信虎・信玄・勝頼の三代にわたって甲斐武田氏の本拠でした。
 扇状地上に立地した甲府市街の北端にあり、市街全体を見渡せる立地。
 方形館を拡張した縄張りですが、館というより平城と呼ぶにふさわしい規模です。

 武田氏廃絶後も甲斐の治所として徳川氏に使用され、増改築されています。現在の神社の裏手には天守まで建てられていたとか。1590年の甲府城築城で役目を終えました。

 主郭東に開かれた大手一帯は発掘調査が行われ、現在はその成果に基づいた復元が行われています(写真)。実はこの付近も武田氏以後の改築が行われたところで、以前は三日月堀を伴う丸馬出しがあったことが分かっています。

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2011年04月10日

明石公園

 明石公園にて花見。
 明石城の主要部の跡地が県立明石公園になっていて、この時期は花見の名所になっています。兵庫県内でお城と桜といえば姫路城が有名ですが、明石城も派手さはないものの、まずまずの雰囲気です。
 写真は坤櫓。明石城の本丸の四方には、かつて三重櫓が4基建っていて、それぞれ方角の名前を冠していました。現在残るのは南東の巽櫓(巽=辰巳=たつみ)と南西の坤櫓(坤=未申=ひつじさる)の2基で、いずれも国の重要文化財。
 南西の坤櫓の方が一回り大きくて、実質的な天守閣の役割を果たしていました。坤櫓の北側に天守台があり、五層の天守が建つだけの面積があるのですが、こちらは石垣だけで建物が乗ることはありませんでした。明石城は西国大名ににらみを利かせる重要拠点として徳川幕府によって整備されたのですが、大坂夏の陣後の築城で、すでに見栄えの派手さが求められる時代は過ぎつつあったのです。

 って、花見の話なのに、なに城のことばかり書いている自分。

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2011年01月03日

渋谷城(東京都渋谷区)

 金王八幡宮の境内に「渋谷城 砦の石」というものがありました。神社の境内一帯は駅から少し高い土地になっているのですが、戦国時代、ここに渋谷城があったということです。この辺り、山手線の線路に沿うように渋谷川が流れているので、これが西の守り。北東側は黒鍬谷という谷が防御線になっていたとのことですが、現在はこれがどの辺りかは、私には分かりませんでした。
 宝物殿の御神輿の脇に、渋谷城の模型が置いてありました。単郭の簡単な縄張りのお城だったようです。
 境内にある砦の石自体はさほど古いものではなさそうです。関東平野の真ん中は、石垣で固めた中世城郭、ほとんどないんですよね。それでもお城があったことを伝えるよすがになっているので、それはそれで貴重なもの。

 歴史的農業環境閲覧システムで迅速測図(三角測量が始まる前に速成で製作された明治時代の地形図)を閲覧できるので、渋谷城辺りを見てみたのですが、これでも城跡的な地形は分かりません。
 中世以来の渋谷氏の城館で、1524年に北条氏の攻撃で落城したとのこと。もともと大きな遺構が残るような工事はされなかったのかもしれません。
# しかし迅速測図が国土地理院ではなく農業環境技術研究所のサイトで公開されていようとは。
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